あなたはなにもしなくていい

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駅から出て、家に帰る途中、歌が聞こえてきた。道の向かいに、あの女の人が歌っている。シドニーには、なんて総称したらいいのかわからないけれど、ストリートアーティストたちがいる。路上で、歌を歌ったり、楽器を弾いたり、踊ったりする人たちだ。

 路上にはいろいろな人がいておもしろい。ショッピングセンターの前の角には、馬頭琴みたいな楽器で、「お母さんより素晴らしいものはない」という感じの歌詞の中国語の歌をエンドレスで引くおじいちゃんや、日中ベリーダンスを踊る男の子が、一日の終わりには『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』のBGMを流しながらきつねの仮面を売っていたりする(このネタわかります?)。

 そのストリートアーティストさんの中で、ピアノかギターと一緒に歌を歌っている女の人がいるのだが、私はその人の声と顔が最初から気になっていた。すごく寂しいビブラートのかかった声である。彼女が歌っていると、立ち止まって聞いてしまう。

 今日は、仕事が終わって、駅から家に帰る途中、彼女が路上で歌っていたから、家に帰らず、そこら辺の段差に腰かけて、この無料のコンサートを聴いていた。こんないい声がタダなんて、粋だよね。いま、家に帰らず、路上で歌を聴いてるよ、と彼氏ではないけど愛している彼に連絡を入れたら、電話がかかってきた。自分も聞きたいとのこと。すこし、一緒に聞いていたら、答えなくていいから聞いてほしいといわれた言葉が素敵だったので書き残したい。

 

 きみの笑顔をみるととてもうれしい。今君と一緒にいる時間が天国みたいだ。きっと君は天国から来たぼくへの幸運だと思う。ぼくは完璧な人間ではないが、今この瞬間きみを幸せにできればいいと思っている。未来ではなくて、今の君が幸せで笑ってくれたらそれがうれしい。ぼくは強い人間ではないから、ときに君を悲しませたり、落ち込ませたりするけど、きみは何もしなくていい。ぼくは今を君といれることに集中する。

 

という電話をもらった。

 

私は諸事情あって、彼氏彼女の状況にありたくない。でも、愛している彼から、きみはなにもしなくていいといわれたことがとてもうれしかったということを書きたい。もちろん私は生きている限り何かをしたり、しなかったりするわけだが、「なにもしなくていい」ということは「なにをしてもいい」ということの強い肯定だとおもう。なにかしたとしても、なにもしなかったとしても、それでいい。そんな君が好きだといわれたようで、とてもうれしかった。

完全肯定的に愛された経験はお持ちですか?私は、自分の親や家族が最初のそれにあたる。大人になるにつれて、特に遠くに離れてみて、再確認したこの完全肯定的愛だが、「ま、あんたのやりたいようにやんなさい。それでいいから」と私が、他のお子さんたちとは違うことをするときにこんな言葉で背中を押してくれた両親に、この人は私を完全に信頼しきっている!と感動した。たぶん、失敗こくよ、私。と思うんだけど、そんな失敗も死んだりしない限りはいいだろうと大きくみこして、「やりたいようにやれ」と言ってくれる親が正直すごいと思った。

私がやりたいと思ったことへの肯定、「私が」やりたいと思ったことなら別に何でもいい。何かよりも「私が」というところが彼らのみそであるところに、全幅の信頼と愛を感じた。

彼との関係は、いわゆる付き合うという肩書には私自身が置かれたくなく、愛しているけれど、彼女になりたくないという現状である。彼が心から私を愛してくれていると思う点は、家族が私に持つ全幅の信頼の愛ととてもよく似ているからだ。私が、こう思う、やりたい、あるいはやりたくないといったことに対して、君がそう思ったんならそれでいいんだね!みたいに無邪気に信じて話してくる。私の決定がいかに将来的に自分を不幸にするかとか、いい仕事を逃してこれからどうやって食っていくのかとか聞いてこない。君がそう決めたんならそれがベストなんだよみたいに言う。嘘かもしれないけど、私には彼は本気で言っているように聞こえるから、本当だと思う。本当にそう言っているんだと思う。それが、彼が私を愛していると思った点。そのかれに、「きみは何もしなくていい」といわれたことが今日一日の中で一番輝いた。

なにもしなくていい、というのはなにをしてもいいの強い肯定で、疲れてベッドで横になっても、海に行きたくなったから海で寝そべってても、仕事一生懸命頑張ってても、悔しくて泣いても、別にいいんかと思わせてくれるその安心感をありがとう。